幕末好きにも刺さる!?江戸切子と薩摩切子の違いを歴史から紐解く

硝子の厚みに歴史あり

工芸品において、硝子にカットを施したものを切子という。その中の代表的な工芸品として君臨しているのが、ぐい呑みやロックグラスで知られる江戸切子と薩摩切子だ。この2つの違いは、手にとってみるとすぐにわかる。それは硝子の厚さ。江戸の方が薄く、薩摩方が厚い。これは、それぞれが生まれた江戸時代の歴史に紐づいている。

庶民好みの“粋”な装飾を施した江戸切子

江戸切子の始まりは1834(天保5)年。硝子職人の加賀屋久兵衛が金剛砂を使用して硝子面を研磨、彫刻を施した技法を考案したことが原点といわれている。当時、切子の技法を使って装飾されていたのは器や脚付コップなど。装飾は霰文や麻の葉文など庶民の間で流行していたと思われる和柄文様を表現し、日用品をより華やかなものに彩った。

この技術が長い歴史とともに現代まで引き継がれ、1985(昭和60)年に東京で生産されている硝子細工の作品を「江戸切子」として、東京都が都の伝統工芸品に指定。現在では江東区・江戸川区・墨田区を中心に、職人たちが歴史ある江戸切子の文化と技術を継承している。

江戸切子を生んだ久兵衛の弟子が薩摩で技術を伝授

切子の技術を考案した加賀屋久兵衛。眼鏡や寒暖計、比重計を製造する傍ら、切子作品を数多く手がけ、ペリー来航の際に作品を献上。手にしたペリー提督から絶賛を受けるほどの腕前だった。そんな彼の技術を受け継ぐ一人の職人が、薩摩に江戸切子の技術を伝えるきっかけとなる。

幕末に薩摩藩主・島津斎興が硝子を含む諸工業の導入を進めた際に、薩摩で硝子製造に従事したのが、久兵衛の弟子であったといわれる硝子工の四本亀次郎。江戸で高い技術を持っていた亀次郎が、のちに薩摩切子誕生に深く関わっていくのであった。

薩摩藩主の命により発展した薩摩硝子

 

武家や将軍に贈呈され価値を高めていった薩摩切子
写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟

江戸幕府時代の後期、舶来品の流通とともに蘭学が隆盛。西洋の医療技術も伝えられるようになり、各藩では種々の化学工業を手掛けようとする動きが出てきた。

硝子製造については、薩摩藩の名君と評されていた藩主・島津斉彬が、西洋理化学の製剤における容器として硝子瓶の必要性を確信。1852(嘉永5)年、江戸で評判の腕利きだった四本亀次郎を呼び寄せ、ガラス熔融窯でガラスの製造に従事させた。この動きを皮切りに長州藩、福岡藩、佐賀藩が追随。各地で硝子の製造が行われるようになっていく。

 

ぐい呑やロックグラスなど重厚感のある薩摩切子

藩主の島津斉彬は硝子瓶の製造を進める一方、夜間に航行する船舶が進行方向を他船に知らせるために掲げる色灯、“舷灯”に使用する紅色硝子と、色合いを変えた透明度の高い紅色硝子の開発に取り組む。

命を受けた四本亀次郎を筆頭に、職人たちは日々、試行錯誤を繰り返し、長い月日を経て美しい色合いの硝子を生み出すことに成功。日本初となる美しい紅色をした薩摩の色硝子は“薩摩の紅ビイドロ”と称された。

薩摩藩は“薩摩の紅ビイドロ”を将軍家などに贈り、贈答品としての価値を高めていく。その後、藍や紫、緑などの着色にも成功。1856 (安政3)年には硝子製造場が集成館(諸工業を司る所)に移され、飛躍的な発展を遂げることとなった。

江戸切子と薩摩切子の違い

 

表面をカットすることで現れる“ぼかし”が特徴

薩摩切子の最大の特徴は“ぼかし”といわれるグラデーション。透明な硝子の上に色硝子を被せて作られるため、厚い層の色硝子をカットしていくと、次第に透明な硝子が現れる。これが薩摩切子ならではの“ぼかし”なのだが、作品として美しい“ぼかし”を表現するのは至難の技。温かみを帯びた優しい表情は、卓越した技術を持っている職人による作品だからこそ。

またカットや文様にも特徴が。江戸切子では、江戸時代に透明・無色な薄い硝子の表面を削っていたことから表面は薄くカットされたシャープな仕上がりになっている。文様は幾何学模様のように同じ絵柄が連なる装飾や笹の葉文などすっきりとしたデザインが基本だ。これに対し、厚みのある薩摩切子では大胆なカットによって生まれる凹凸のある装飾が特徴的で、複数の文様を組み合わせた豪華なデザインとなっている。

現代では江戸切子でも色被硝子が使われており、カットや装飾もさまざま。見た目だけでは江戸切子と薩摩切子の違いを感じにくいかもしれないが、実際に手に持ってみるとその違いに気づけるはず。2つの切子に触れ合う機会があれば、それぞれが歩んできた歴史にも思いを馳せてみては?

 

引用:日本近世窯業史(ガラス工業)口語版

http://kinousei-glass.la.coocan.jp/kinsei_001.pdf