江戸の粋を映し出す切子の原点とは
硝子の表面を削り、光の屈折によりカットした文様が華やかに輝く江戸切子。この名称は1985(昭和60)年、東京で生産された硝子細工の作品を「江戸切子」として東京都が都の伝統工芸品に指定したことから親しまれているが、それ以前は「切子」や「切子細工」と呼ばれていた。江戸切子の歴史を辿るには、まずは江戸切子と呼ばれる前、日本で切子が誕生した時代まで歴史を遡ってみよう。
江戸時代に日本橋の職人が生み出した特殊技法
江戸切子の始まりには諸説あるが、「日本近世窯業史」(出版:大日本窯業協会)によると、皆川文次郎という一人の男が物語のカギとなる。
時は文政年間(1818~1831 年)、江戸日本橋通塩町(にほんばしとおりしおちょう)でギヤマン※問屋・加賀屋の手代として働いていた文次郎。鏡や眼鏡を作る職人でもあった文太郎はその腕をかわれ、硝子製造の監督を任されていた。
※江戸時代の硝子製品を指す言葉で、ポルトガル語でダイヤモンドを意味する「diamante(ジアマント)」が語源
文太郎はある日、硝子の製造が江戸に比べて大阪が大きく進歩していることを知る。いてもたってもいられなくなり、主人に「大阪へ修業に出たい」と申し出て、すぐさま大阪へ出向き修業を積むことを決めた。
その後、江戸に戻ってきた文太郎は大阪で培った技術をもとに、さまざまな硝子作品を制作。こうして1834(天保5)年、金剛砂を使用して硝子面を研磨、彫刻を施した技法を考案する。これが江戸切子の始まりとされている。
カットを施した硝子の装飾作品が数多く誕生

江戸時代には、カタログチラシの役割を果たしていた包装紙“引札(ひきふだ)”というものがあり、1830〜1854年に発行されていたと思われる加賀屋の引札には、切子の組重(かさね重)や銘酒瓶、脚付コップ、蓋つきの器“食篭”などが登場している。
引札に描かれている切子作品の文様は、当時の江戸庶民の流行や好みが伺える「麻の葉文」や小さな正方形が連続で連なる「霰文」など。これらを手がけたのが文太郎自身であるかは定かではないが、文太郎が硝子に装飾を施した時期と重なることから、彼が切子の製造と販売に尽力した結果といえるだろう。
文太郎は1840(天保10)年に長年の功労が認められ、加賀屋から分家として独立。江戸大伝馬町に店を構え、硝子の製造・販売をスタートさせた。このころから自身を“加賀屋久兵衛”、通称“加賀久”と名乗るようになり、江戸切子を生み出した加賀屋久兵衛として後世に伝えられている。
加賀屋久兵衛にはこんな逸話も。
1853(嘉永6)年のペリー来航の際に、硝子瓶に切子を施した作品を献上したところ、その高い技術に驚いたペリー提督から絶賛を受けたとか。久兵衛は日本で初めて理化学実験用ガラス器具を製造した人物でもあり、その腕前は確かなものであった。
江戸硝子の元祖はもう一人いた⁉︎

また、時を同じくして、久兵衛のほかに江戸での硝子製造の元祖と言われている男がいる。名を上総屋留三郎(かずさやとめさぶろう。本名は在原留三郎)といい、浅草で風鈴やかんざしなどを製造・販売していた。
1828(文政11)年、留三郎は硝子製造が盛んであった長崎へ出向き、現地で修業をすることに。江戸に戻ったのは6年後の1834年(天保5)年。磨き上げた技術で作品作りに没頭し、硝子製品のかんざしや風鈴、万華鏡などを販売。庶民の間で大流行したという。
留三郎はその後も活躍を続け、安政年間(1854~1860年)には蘭学者・川本幸民の某門人から依頼を受け、日本初の蒸留器付属のレトルト(物質の蒸留や乾留をする際に用いられるガラス製の器具)を完成させた。

加賀屋久兵衛と上総屋留三郎が活躍した当時、一般的な硝子製造職人は各地に多く存在していたが、その多くは硝子の生地を原料商より購入し、熔融加工を専門としていた工人だった。それに比べ、江戸に於いて生地から最終製品まで仕上げる業者は“加賀久”と“上総屋”のみ。
こうしたことから、両者は幕府より水戸藩建造に係る軍艦付属ガラスを納入するよう指示を受け、軍艦の窓硝子を献上したという説もある。
幕末になると切子の技術は薩摩へと伝わっていくが、ここにも加賀屋久兵衛の存在が。
薩摩藩主・島津斎興が硝子を含む諸工業の導入を進めた際、江戸で有名な硝子工の四本亀次郎を招聘して硝子製造に従事させたのだが、この亀次郎、元は加賀屋久兵衛の弟子だったといわれている。これをきっかけに切子の技術が広がり、のちの薩摩切子の文化へと発展していくのであった。